Nikon D4S
AF-S NIKKOR 24-70mm f/2.8E ED VR
ガウディは、固く重く冷たく、無機質で拒絶的な石を、
柔らかく暖かく、有機的で抱擁する生き物のように使いたかったようだ。
レンガやコンクリート、タイル、ガラス、鉄などの無機物や木も、
同じように教会と言う有機的な生命体を構成し、
此処を訪れる人々を包み、
神とつながる場所としたかったのではないだろうか。
直線や直角と言う建築の基本形がほとんどなく、
曲線や不定形な形は図面に書きようがなく、
仕上がりを現場の職人と作り上げた苦労が偲ばれる。
彼は自分の個性を表現したのだろうか?
他人と違う事に価値を見出すために作ったのだろうか?
変った事をして世間を驚かし、どうだ、すごいだろうと思っていたんだろうか?
みんな違うと思う。
彼のどの建造物を見てもそういう現代の作家、建築家、アーティストによく見られる、
俺が俺がを感じない。
殆どの作家は、自我の表現とか、自分だけの個性とか、他人にない独創的な表現とか、
いつも人と比べてとか、人より優れてとかばかりだ。
彼の作品の凄さはそれが無い事だ。
後半生を熱心なカトリック教徒として過した彼の生活は質素で、
貧者の為の教会を作りたいと願っていたという。
晩年身なりが余りにみすぼらしく、電車にひかれても浮浪者と間違われ、
気付かれずに亡くなったという。
しかし今や世界中から彼の作品を見に来る人が絶えない。
子供でも関心を持って見ているのが分かる。
彼の作りたかった物がこんなにも理解され、宗教を超えて多くの人を魅了している。
それは彼の作品ではなく、神の作品になったからでは無いだろうか。