天界入路

人の心が少し温かくなって、 気持ちがちょっと優しくなる様な写真を載せていきます。 写真による小さな感動、しみじみとした気持ちを目指して行きたいです。 その為の撮影機材の話や、撮り方などの大事なコツをコンパクトに、作品としての解説などもを交えて書いていきます。

知恩院 三門 御影堂

京都 2020 秋

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法然上人とお念仏

法然上人は平安の末、長承2年(1133)押領使漆間時国(うるまのときくに)の長子として生まれ、幼名を勢至丸(せいしまる)といいました。9歳のとき父・時国が夜襲され、不意討ちに倒れた時国は、枕辺で勢至丸に遺言を残します。
「汝さらに敵をうらむ事なかれ。これ偏(ひとえ)に先世の宿業(しゅくごう)なり。もし遺恨(いこん)をむすべばそのあだ世々に尽きがたし。早く俗をのがれ家を出て、我が菩提を弔い、みづからが解脱を求めよ」

・・・法然上人のことはよく知りませんが 親がすごい と思います

知恩院HP https://www.chion-in.or.jp/about/ から

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 この時代は政権を争う内乱が相次ぎ、飢餓や疫病がはびこるとともに地震など天災にも見舞われ、人々は不安と混乱の中にいました。ところが当時の仏教は貴族のための宗教と化し、不安におののく民衆を救う力を失っていました。学問をして経典を理解したり、厳しい修行をし自己の煩悩を取り除くことが「さとり」であるとし、人々は仏教と無縁の状態に置かれていたのです。そうした仏教に疑問を抱いていた法然上人は、膨大な一切経の中から阿弥陀仏のご本願を見いだします。それは「南無阿弥陀仏」と声高くただ一心に称えることにより、すべての人々が救われるという専修念仏(せんじゅねんぶつ)の道でした。承安5年(1175)上人43歳の春、ここに浄土宗が開かれたのです。

 

・・・ただ最小限

南無阿弥陀仏

と唱えれば

  

「救われる」 

 

という 

とても楽ちんな(失礼)

有り難い教えですね